一言モノモーション

多様性を尊重しない教育、「出る杭は打つ」教育が、日本の人々から“当事者意識”を奪い、結果として主体性を持って頑張る人ほど負担がかかり息苦しくなる社会が形成されています。教育の在り方を根本から見直す時です。

“当事者意識”を育む教育が日本の息苦しさを改善する

by Sano Waco

  • ¥1,000

    目標金額
  • ¥0

    獲得シンパ
  • 0

    残り日数
  • 終了日

    モノモーション終了
Raised Percent :
0%
This campaign has been invalid or not started yet.
, 日本

Sano Waco

1 Campaigns | 0 Loved campaigns

ピニオン紹介

メインモノモーション

多様性を尊重しない日本の教育が量産する「できる人にやらせておけばいい」派

頑張るほど重荷が増え、日々がつらくなる社会

こんな経験はありませんか?

  • 仕事を意欲的に頑張るほど本来他の人でもできるはずの仕事を振られるようになり、いつの間にかキャパオーバー
  • 「〇〇さんならできるだろう」「〇〇さんにお願いすれば早い」と何かと役割を押し付けられる
  • 他の人よりも高い水準で仕事や役割を果たすことを不当に(相応の報酬等なく)強いられている気がする
  • 自分は誰かが大変そうにしていたら協力しているが、自分が大変な時には周囲から「大丈夫だろう」と思われており、手を差し伸べてくれる人はあまりいない

仕事や家事、育児、各種コミュニティでの活動などで、周囲からさりげなく負担を押し付けられている。自分は精一杯頑張っていたはずなのに、いつの間にか重荷を負わされ息苦しくなっている。

やるべきことを意欲的に頑張る人ほど、そんな風に感じた経験があるのではないでしょうか。

多様性を尊重しない教育が人々から主体性を奪う

小学校の教室

皆さんが学生時代に受けた教育を思い出してください。

学校生活自体については楽しかった人、つらかった人、様々かと思いますが、「受けた教育」という視点で思い出していただきたいです。

あなたの意見や考え、気持ちを押し殺して、教師の指示や周囲の雰囲気に合わせなければならない場面が多くあったのではないでしょうか。

日本の教育(特に義務教育)には、多様性を開花させるのではなく、既定の「正しい日本人モデル」(いわゆる優等生モデル)に個人をなるべく近づけようとするやり方を是認する風潮があります。

もちろん、教育には子どもたちを「今の」社会の在り方に適応できる人間に育てる目的もあります。しかし、社会に適応したうえで多様性を開花させる必要性やその面白さ、あるいは他者の持つ多様性をありのままに受容する必要性をしっかり身につけさせるまでには、教育の手は行き届いていないのが現状です。

自分や他者の持つ多様性を是認するキャパシティが育まれていなければ、自分の考えに自信が持てず、主体的に行動することに臆してしまう。「同調している」「大衆に対して均質的である」と周囲に思ってもらえなければ不安。

その意識が根付いていることから生じる息苦しさが更に人々から主体性を奪い、結果として、必要な役割が主体的に行動する努力をしている人に集中してしまう社会になっています。

「出る杭」は抑圧され続け、主張できない大人が増えていく

過半数が同意する意見以外は「出る杭」扱い

意見を発言する場面で、「言うべきかな」「言っていいのかな」と迷い、「やめておくか」と言葉を飲み込んだ経験は、大袈裟でなくほぼ100%の人が持っているのではないでしょうか。

意見を求められている場面なのに意見を遠慮してしまうのは、なぜでしょうか。

ここでもやはり、教育現場での経験を思い出してみてください。あなたが、あるいは他の誰かが、自分なりの意見を発信した場面で、教師からやんわりと訂正を受けて意見修正や撤回をせざるを得なかったり、クラスメイト等の呆れたり嘲るような空気を浴びたりして、結局意見を強く主張することができなかったことはありませんか?

その場の過半数が同意するような「正しい意見」以外が「出る杭」として打たれる風潮は、教育現場から始まって人々の意識に根付き、大人の社会にも蔓延しています。

主張しづらい風潮が作る、何も言わない大人の集団

「出る杭」にならないように教育されてきた子どもたちが、大人になったからといって急に主張ができるようになるわけがありません。

集団の中で生活するためやむを得ずに「打たれないよう」埋没を優先してきた人々が、意見や考えのアウトプットが必要な場面でもそれをできない大人になり、今や多数派。

私たち人間の社会は、人間の考えやその共有がなければ維持も進歩もし得ません。アウトプットすることの必須性に気付き、意見発信の努力をしている人に負荷が偏り続けています。

たとえば、改善案を発言したらその主導者に任命され、発言時は同調していたはずの周囲の人々は手を貸してくれない。

意見交換をしたかったのに、自分の発言の後に続く発言はなく、討論できずに終わってしまう。

意見発信の努力をしている人は、そんな場面を幾度となく経験してきたはずです。

「当事者として生きる面白さ」を学べる教育を!

主体性を持って頑張るほど追い詰められる理不尽や、言いたいことを自由に言えない閉塞感。日本では、多くの人が本当の自分で生きられていないような息苦しさを抱いているのではないでしょうか。

日本の息苦しさの原因は数多くあると思料しますが、ここまで述べたとおり全体的な主体性不足が一因であるという観点から、日本の教育に早急に「当事者意識醸成教育」にシフトすることを求めます。

当事者意識とは、物事に対して「自分が」行動する、「自分が」解決する「自分の」責任を意識して行動することです。

自分自身の身のまわりのことすべてを自分事と考え関わっていくことは、私たち人間にとって本来面白い・楽しい・やりがいのある営みであるはずです。

物事に対して、一線を引いて関与した経験よりも、自分の意志に基づいて積極的に関わった経験の方が良い思い出になっていることは誰にとっても自明なことと思います。

「自分が」やれば面白い。この体験の蓄積が、主体性のある大人を作ります。

日本の教育現場が、当事者として何かを成すことの面白さを子どものうちからたくさん学ぶことができる場所になるよう、教育の在り方の見直しを求めます!

レビュー

レビューはまだありません。

““当事者意識”を育む教育が日本の息苦しさを改善する” の口コミを投稿します