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「とりあえず大学は出なさい」
いま、この文章を読んでいる人であれば一度は耳にしたであろう言葉。親や親戚、学校の先生から、あるいはメディアから。この言葉はなぜ生まれたのでしょうか。
1960年代後半以降、日本における産業の構造は「大企業(と傘下のグループ)」が中心となっていきます。規模の大きい企業ほど、業務には多角的視点や論理的思考力を求められ、その能力を有する水準として、社員に「大卒」というハードルが設定されました。人生は階段式であり、大学入試という大きな段差を上がりさえすれば、という考え方がこの日本で定着していったことは、1970年代より高校以上の学歴を持つ国民の割合が増えたことからも明らかと言えるでしょう。
大卒は「階級」
2020年代の現在、大卒であることは、少しずつでも上がれる階段のうち一段ではなく、ドアの内外で完全に分かれる入場チケットのように受け取られつつあるのではないでしょうか。「失われた20年」を経て経済水準が低下、さらにwebメディアの発達で個人が自由に発信できるようになった結果、生活レベルの分断を感じることもより身近になっていると考えます。簡単には手に入らないはずの世界が、手元の画面一つでとても身近に感じる。同時に、見渡せばじわじわと廃れていく現実の世界。あちら側に行く手立てはないか、と焦り、自分の足元も能力もしっかり捉える余裕が無くなっていく。しかし、余裕のない中で情報を一気に、一方的に受け止めることは、それらが単純な「白か、黒か」「勝ち(利益)か、負(損)か」に仕分ける、深く考えなくてもよい視点にシフトしがちです。社会が多層構造で成り立つという視点は、それを感じる、理解するだけの余裕と思考力、時間が必要です。(本来、それを得る能力を醸成するのが大学、という機関の役割の一つです)しかし、そうでない(多数派と思われる)人たちにとって、大学は考える余地もなくただ入るもの、大卒であることは「階級・格差」を示すもの。「でなければならないもの」というある種の恐怖に囚われているのではないのでしょうか。
入った後は??
ここからが本題ですが、「〇〇大学」と聞いてあそこか、と認知されるような大学でない私立大学は、そのほとんどが少子化、不況の影響を受け、定員割れを起こしている状態です。学校も経営を維持するために、とにかくまずは定員を充足することを目標にします。では、どうやって学生を増やすか? 最も簡単な方法は入学のハードルを下げること。つまり、必要な入学金を支払い、事前に質問内容を知らされた面接を受ければ合格。何の準備も目標も努力もなく、大学生になれる。この制度が大学全入という現在の状況を作っているのです。さてこれらの大学生は果たして「大学生」と呼ぶに値する能力を有しているのでしょうか。私が経験した学生の例を挙げるとするならば「分数の足し算ができない」「本籍記入欄に日本、と記入」「ひらがなで住所を書いて提出」「1分前に見せた実技ができない」「授業中にスマホのゲームをして興奮し、叫ぶ」。保護者もまた「子供が試験に落ちると事務局に抗議の電話」「面接にギリギリまで親同伴」「自分は名前を明かさず、子供の同級生は名指しで情報を聞き出そうとする」など。仮に、彼らがその大学における卒業率という数字を満たすためにゲタを履かせて卒業させられ、「大卒」の資格を得たとて、彼らはドアの向こうへ行く入場チケットを手に入れたのでしょうか。当然ながら、それなりに能力のある高校生以下の能力を4年間でさらに腐らせ、しかし肩書だけは彼らより上という、企業としては採用する気にもなれず、かつなによりも本人たちにとって足枷にしかならない卒業証明書という数百万円の紙切れ1枚を貰うだけの結果となります。そのような大学生が、毎年何万人も出てくる。彼らが作り出す社会に、何の希望が見出せるでしょうか。
大学に入る前に
大学に入らねば、という恐怖は無駄であることが理解頂けたと思います。仮にその後、良い会社に入ったとしても、また別の恐怖や世間体、競争が待っています。まず考えるべきは、大学生になる前に、いかに周囲の人間、特に保護者が大卒の価値観から抜け出し、「何の為に大学に入るのか」を徹底して子供と話し合う事ではないでしょうか。子供と議論するのなんて面倒だ、と気づいた保護者は、その時点で子供を大学に行かせる権利はないと思います。子供は親の習慣、言動、思考、何であれ影響を受けます。「面倒だけど親が言うから大学に行く」学生がここで誕生します。入学さえすれば努力し、社会で生き抜く人間に変わると思えるでしょうか?思っているなら間違いです。ちなみに進路相談を高校に丸投げした場合、残念ながら偏差値の低い高校であれば、担任や進路指導の教員は指定校推薦で大学に行け、と言われるでしょう。その目的は学校の目標とした進学率の維持であり、学生各々の方向に向かい合っているとは、とても言い切れません。結論として、大卒者に求められる能力、すなわち正確に調査し、議論し、新たな目標を立て努力するということが大学入学前にできない子供、あるいは保護者であるか否かを判断する時間と制度が必要であり、高校2年生のうちにまず取り組むべきだと考えます。もし、18歳の時点でそれらの能力がない子供や保護者であるならば、大学に入る前に社会人として自律・自立させた方がよほど大学に行くより時間もお金も心も無駄にせず、社会的役割を果たしていると考えます。その上で、本当の学びたいことができてから、大学に入る。後で埋められる能力差は、実は全入型の大学によって逆に広げられ、断絶させられているのではないか。「とりあえず大学」と聞いたなら、このことを少し考えて頂ければ、と思います。
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